07 La Musica de la Tumba Francesa - トゥンバ・フランセサの音楽
2011-02-16


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 18世紀の終わりから19世紀初めのハイチ革命の結果、キューバへ来たハイチ移民は、純血、混血、奴隷、自由な黒人問わず皆フランセス(フランス人)と呼ばれた。その後この移民たちの子孫としてキューバで生まれた世代や、さらにはフランス植民者によって買われ、後にハイチを脱出してキューバにたどり着いたアフリカの様々な国出身の奴隷たちまでもが一様にフランセスと呼ばれた。

 文化が発達する初期段階より元来発達した文化を持つ彼らは、主人の言語であるフランス語に、独自の文化要素を同化させた。それらの言語は彼らの母語ではなかったが、サント・ドミンゴ島のフランス支配下の地域で起こった異言語との交じり合いにより、クレオールまたはパトワ(訛り)となった。キューバでは、彼らが持ち込んだ文化的特色の名残りとして、このパトワは彼ら自身の言語として保持された。まさに彼らは、新たな社会経済的関係によって決定された新たな文化の融合過程に再び付き合わされることとなったのである。

 フランセスという名称は、人間のみならず彼らを取り巻く全て、すなわちダンス、楽器、カビルドやグループにも広く用いられた。この名称により、一方では社会的地位が高いかの様に装うことが出来た。また一方でハイチは、18世紀最後の10年間ヨーロッパ諸国のアメリカにおける植民権力に対する破壊活動の中枢であった為、ハイチ人と名乗ることでキューバのスペイン植民当局との関係が危うくなったかも知れない為フランセスと名乗った方が良いと考えられた。

 トゥンバ・フランセサのグループは、そうした移民の初代の子孫たちが集まり、その後多くのキューバ人も混じってきて、彼らが行っていたとりわけ初期の祝祭の数々を徐々に統合しながら19世紀最後の数10年から20世紀初めの数10年の間(全盛を極めた時代)に急速に発達した。

 しかしながら、全てのフランス移民の奴隷がカビルド・フランセス(ハイチ人のカビルド)の一員となった訳ではなかった。彼らの多くは初期の祭礼から遠ざかり、より直接的な形でキューバ国民に統合されて行くようになった。母国語を話すのを止め、ハイチから持ち込んだ文化や伝統との繋がりを失いながら、この植民社会における別の活路を自ら見出していった。

 カビルド・フランセスは、アフリカ人奴隷や自由な黒人グループの加入、またフランス人の雇い主や先祖の所有者の苗字を使い続けた移民の子孫たちとの統合により増大した。そんな事からも、娯楽行事、すなわち特定の行事における祭礼の中心が、彼らの民俗的要素がキューバで、多様な功業をともなう全ての文化の融合過程を通してもなおフランスのエッセンスを失わずに今日まで継承された主要な誘因であった事は理解できる。前述した繁栄期の後は退廃の様相をきたし、今日ではわずか2つのカビルドを残すばかりとなった。

 カビルド・フランセスは、初期の習俗や歴史がキューバ文化の特徴を作り上げた要素の源となっている。今日その音楽や踊りは、キューバの村落の独特な文化的特徴となり、また東部地域のコンガやコンパルサといった都市近郊における芸術文化にも直接的または間接的に影響を与えた。

 カビルド・フランセスの生活は祝祭を通して発達したのだが、その祝祭はソリストもしくはコンポシ(唄い手のリーダー)による唄、トゥンベーラのコーラス、マヨールもしくはマヨーラ・デ・プラザ(男性もしくは女性の責任者)演出のダンス、ソロダンサーたち、ドラム奏者、指示役のスタッフと全ての基本的な構成の決定を担う役割の者(かつては王や女王)から構成されている。

 マヨールもしくはマヨーラ・デ・プラザには指示を出す役割があり、祭礼の一連の場面の段取りに関わる全ての準備をおこない指示を与える時に笛を鳴らす。どのペアが踊り、メインダンサーの右手をとり、何周踊ってから丁寧なお辞儀をし、その後パートナーへ戻すなどといった踊りの構成なども決める。


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[Antologia De La Musica Afrocubana]
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